新・後光がさしたよ

生きる喜び

ねこ新聞 いぬ新聞

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どちらかというとねこ新聞を読みたい。

今日は頭の中のおミソがブルっとしました。
そのきっかけは、ある先生が持ってきた
「カットを割る」ということについて書かれた授業用のレジュメ。
編集の話をするために書かれたレジュメらしいのですが、
なんだか近頃「無意識」になってたことを目の前に出された!って感じでした。

以下、ダラダラと考えていたこと。

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撮影段階で色々とカットを割ってくださっているんですけど、
それらは、いずれ編集されてゆきます。
編集する時は頭の中をいちいち口に出すこともなく、
文字にすることもないけれども、「無意識」に色んなことを考えるんですね。
私は1秒間24コマもしくは23.98、59.94フレームの
Aの「ある1コマ」とBの「ある1コマ」を繋げる時に結構様々なことを足りない頭で考えます。
その決める決定打についてをグルグルと考えてました。
ひょっとしたらAの「ある1コマ」とCの「ある1コマ」を繋げるかもしれないし、
Aは使わず、Bの「ある1コマ」とCの「ある1コマ」を繋げるかもしれない。
ここではA,B,Cの中でどれを使うのかを選択しているし、
さらにその中で2時間の映画なら2時間の流れの中で、
「ここだぜよ!」と思うところで編集点を決めている。
なぜ「ここ」に決めたのか。
一瞬で編集点が過ぎ去るとしても、その編集点が「どこ」でも良かったらきっと永遠に編集できない。
じゃあ、なぜ「ここ」?と考える。
「ここ」は編集する人によって違ってくるから、私がなぜ「ここ」にするのかを考えるのです。
スムーズに過ぎ去っていく「ここ」もあれば、ぎくしゃくした「ここ」もあるので、
どっちの「ここ」にするかは、映画の流れによって決めてゆきます。
それは、ミクロなAとB(例えば)の繋がりだけではなくて、どういう大きな流れにしようかな、と考えると、
どの「ここ」にするかを決める選択肢が狭まってきます。
編集点がネガティブな理由で決まってしまうこともあるので、それはいたしかたないにしても、
やはり全ての編集点には理由があるのですわな。
「ここ」を見つけるためによぉーくカットのひとつひとつ、
コマのひとつひとつを見ないといけないんだなー。
そいで、「ここ」と「ここ」が繋がった時に、観てる人に見えない何かを想像させたりしながら
彼らの興味をひっぱっていくことができるんだなー。
「見えない何か」っていうのは人の感情かもしれないし、空間の雰囲気かもしれない。
これは編集してる時の思考として当たり前なのかもしれないけど、
改めて考えてたら、頭の中がメラメラしてきました。

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デスマスあったり無かったりで読みにくいし、長いけど、
メモがてら。
これだけ わわわっと書いたってことは、相当ブルブルやられたんだわ、私。
しかし、もっとね、日本語が上手なら巧くこの気持ちを残せるんだけどさ。あーあ。
今日一番の残念ポイント。
ともあれ、学校ではREDのワークフローだの、FCPのトラブルシューティングだの、
DCPの作りだのってやってるけど、本当はこういうところが大切なんだよね。
スティーンベックだろうがPCだろうがそれは確固たる変わらない部分であります。
技術に振り回されるまえに、ここは立ち戻らないと。
ちょっと気がゆるむと技術習得しただけで満足感や達成感を感じちゃうからね。
編集に入る直前だったから、今日はおミソをブルっとしておいて良かったかも。

さっきまで8mmフィルムカメラの受け渡しで
大学時代の友人と会っていた。
撮影で使うんですって。小道具として。

ほいで、持ってるは持ってるけど、
うちにはFUJICA P-300しかないと思ってた。
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これね。
これは大学の時に先輩からもらったんだっけか。
中のスポンジ部分が劣化してる。

ところがこの他にも、
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Canon 518 SV
とか、

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KONICA ZOOM8 �なるカメラが出てきた。

撮ることにはあまり興味がないし、
そもそも518 SVは完全なるジャンクなのですけど、
こういう物体自体を持っていることが好きみたい。
別にコーヒー飲みながら眺めたりはしないけど。
どこか部品を抜くとか、当時は色々考えてたのかもしれないね。

ところで、友人にカメラを渡して、帰宅したらセーターが裏返しで驚いた。